それを隠そうとして、わざと「さくら」で気持ち程度に女性を採用するところは沢山あります。事実、どの組織でも、どの会社を見ても、役員に女性はほんの一握りです。人口で言うと、女性の比率が多いのにもかかわらず。
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト 5月22日(水)10時22分配信
女性科学者は、何世紀にもわたって研究のボランティア的存在にすぎなかった。彼女らの業績は夫や同僚の男性研究員の手柄となり、科学史から閉め出されてきたのだ。
「現在の女性科学者は、そのような慣習は過去のものとなったと信じている。しかし、実際に問題に直面して初めて考えを変えるのだ。彼女たちに対するあからさまな偏見は影を潜めたが、なくなったわけではない」と、女性科学者について研究するアメリカ、カリフォルニア州にあるポモナ大学のローラ・フープス(Laura Hoopes)氏は指摘する。
今回は、革新的な業績を残したにも関わらず、不当な扱いを受けた6人の女性研究者を紹介しよう。知名度が低い理由は、女性だからにほかならない。
◆ジョスリン・ベル・バーネル(Jocelyn Bell Burnell)
1943年、北アイルランドに生まれる。パルサーを発見した1967年当時は、イギリスのケンブリッジ大学で学ぶ電波天文学の大学院生だった。
パルサーとは、超新星爆発を起こした大質量星の残骸である。パルサーの存在により、超新星爆発で恒星がすべて吹き飛ぶのではなく、高速回転する高密度の小さな中性子星が残ることが明らかとなった。
この業績に対して、1974年にノーベル物理学賞が付与された。しかし、受賞者はベル・バーネルの指導教官アントニー・ヒューイッシュと、ケンブリッジ大学の電波天文学者マーティン・ライルだけだった。
◆エスター・レダーバーグ(Esther Lederberg)
1992年、アメリカ、ニューヨーク州ブロンクス区に生まれる。微生物学者で、バクテリアの遺伝の発見、遺伝子の調節、遺伝子組み換えの基礎を築いた。
最も有名な業績は、バクテリアに感染する「ラムダファージ」というウイルスを1951年にウィスコンシン大学で発見したことだろう。
シャーレで増殖したバクテリアのコロニーを、別のシャーレに簡単に移す方法を確立したのもこの人だ。最初の夫ジョシュア・レダーバーグとの共同開発で、抗生物質の耐性の研究が可能になった。レプリカ平板法と呼び、現在もなお利用されている。
この業績などが評価され夫のジョシュアは、ジョージ・ビードル、エドワード・タータムとともに1958年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
◆呉健雄(ごけんゆう)
1912年生まれ。中国上海市郊外の小村で育つ。物理法則を覆し、原子爆弾の開発にも携わった。
1950年代半ば、パリティ対称性の破れを提唱していた理論物理学者の李政道と楊振寧は証明方法について、当時実験物理学の第一人者だった呉に協力を仰いだ。パリティ対称性とは、量子力学において3次元空間には原子のように右手系と左手系があり、この2つの系は鏡に映したときのように左右対称に同じ動きをするという法則である。
呉は、放射性同位体コバルト60を用いて、30年にわたって信じられてきたこの物理法則を覆した。
この功績が認められ、李と楊は1957年にノーベル物理学賞を受賞したが、証明に大きく寄与した呉に賞が与えられることはなく、1997年にこの世を去った。
◆リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)
1878年、オーストリア首都ウィーンに生まれる。核物理学の研究を行い、原子核が2つに分裂する核分裂を発見。その課程で発生する大きなエネルギーは、程なく原爆開発に利用されることになる。
マイトナーの場合は、性差別だけでなく、政治、民族差別が複雑にからみあっていた。
ウィーン大学で物理学の博士号を取得後、1907年にベルリンに移り住み、化学者オットー・ハーンと共同で研究を始める。共同研究は30年以上続いた。
1938年3月にナチスがオーストリアを併合、ユダヤ人であるマイトナーはスウェーデンのストックホルムに逃亡した。その後もハーンとの研究を秘密裏に続けた。
ハーンは実験で核分裂の証拠となる放射性物質を生み出したが、理論的な説明ができなかった。マイトナーと甥のオットー・フリッシュがこの反応を説明する理論を提唱した。ハーンが発表した論文には、共同研究者のマイトナーの名前はなかった。マイトナーは当時のナチスの状況から、連名ではなかったことに対して理解を示していたという。
だがマイトナーが女性だったという事実こそ、その功績が無視された大きな要因だ。スウェーデンでは女性というだけで犯罪者のように扱われると、マイトナーは友人に手紙を書いている。実際、ノーベル賞選考委員の1人は、マイトナーを締め出そうと積極的に動いた。1944年、核分裂反応の業績が認められノーベル化学賞に輝いたのはハーン1人だった。
◆ロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin)
1920年、イギリス、ロンドンに生まれる。DNAのX線写真を撮影し、生物学に大きな影響を与えた。
1945年にケンブリッジ大学で物理化学の博士号を取得、パリの研究所に3年勤めた。ここで、X線回析技術を習得し、結晶の分子構造を決定する方法を確立した。
1950年にイギリスに戻り、ロンドン大学のキングス・カレッジのジョン・ランドールの研究所で研究職を得る。そこで、独自の研究グループでDNA構造の解明に取り組んでいたモーリス・ウィルキンスに出会う。
両者はそれぞれ独自にDNA研究を行っていたが、ウィルキンスはフランクリンをアシスタントだと勘違いしていた。
一方、ケンブリッジ大学に在籍していたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックもまた、DNA構造の解明に取り組んでいた。ウィルキンスはフランクリンが撮影したDNAのX線写真(フォト51)を彼らに見せた。
ワトソン、クリック、ウィルキンスは、DNAの二重螺旋(らせん)構造を確信し、1953年4月に「Nature」誌に論文を発表。だが、フランクリンも同じ号にさらに詳細なDNA構造について掲載していた。
フランクリンのフォト51がDNA構造解明の重要な手掛かりとなったにも関わらず、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞したのはワトソン、クリック、ウィルキンスの3人だけだった。フランクリンはその4年前に卵巣がんで既にこの世を去っていた。
◆ネッティー・スティーブンス(Nettie Stevens)
1861年、アメリカ、バーモント州に生まれる。アメリカ、ペンシルバニア州のブリン・モア大学で博士号を取得した後も大学に残り、性決定機構の研究を続けた。
1905年、ミールワーム(ゴミムシダマシの幼虫)の実験から、精子の性染色体にはX染色体とY染色体があり、卵細胞にはX染色体しかないことを発見。性決定が環境などの外部的要因ではなく遺伝によることを裏付けた。
同僚の研究者エドマンド・ウィルソンは、類似の研究に取り組んでいたが、同じ結論に達したのはスティーブンスよりも後だった。
スティーブンスは、女性科学者の科学への貢献が明確にされない、いわゆる「マチルダ効果」と呼ぶ現象の犠牲者となる。
「当時遺伝学の第一人者だったトーマス・ハント・モーガンの名が、遺伝による性決定の発見者と挙げられる場合が多い」と、前出のフープス氏は言う。モーガンは遺伝学の教科書を初めて書いた人物で、自身の貢献を誇張していたという。そのため、性決定の発見にスティーブンスの名前が挙がることはなかった。
フープス氏は、モーガンの発見にスティーブンスが貢献したことは間違いないと指摘する。「モーガンは実験の詳細を尋ねる手紙を彼女に送っていた」。
以上が正当な評価を得ることなく、科学史から閉め出された6人である。リストに漏れた悲劇のヒロインが多数存在することは、科学者ならだれでも心当たりがあるに違いない。
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